8年前に亡くなった友人のS氏を偲んで、友人たちと一泊二日でお墓参りに行ってきた。
というよりも、お墓参りにかこつけて温泉旅行に行ってきた、というのが正しいか。
お墓のある場所は、栃木県下都賀郡野木町。
東京に住んでいたS氏のお墓がなぜここにあるかというと、お父さんの出身がこの近辺、というのが理由らしい。
彼は通勤途上に突然倒れたが、お父さんは未だに健在のようである。
彼の菩提寺。

春うららの彼のお墓の近辺。

彼の菩提寺は、渡良瀬遊水地の近くである。
左側が遊水地の敷地。
このあたりは、栃木なのか、群馬なのか、茨城なのか、みな接近していてよく調べないとわからない。

彼は、城めぐりが好きであったので、彼を偲んで、まず佐野城を訪ねた。
敷地の大半は市街地となっているが、この地図の茶色の部分は周辺よりも小高くなった「城山」で、多少は往時を偲ばせるものがあった。

敷地の一部は発掘されたままとなっていた。

城跡は公園となっており、市民の憩いの場、という感じである。

カンザシという種類の桜。

佐野と言えば、佐野厄除け大師。

何故かキンキラキンが好きなようで・・・・。


昼食は当然佐野ラーメン。
佐野ラーメンは、何度か食べたことがあるがアッサリとした醤油味で私の好みである。
どの店も麺は手打ちが多く、柔らかい。

ひなびた佐野市街の様子。

続いて、佐野市の郊外にある唐沢山城。
写真の表示は「唐澤城」となっているが、佐野市のホームページやその他では「唐沢山城」となっているので、後者で記述する。
唐沢山城は、中世の山城である。
小学生が授業の一環でか、多数来ており、ここも市民の憩いの場という感じのところである。

先ほどの佐野城と唐沢山城とは関係がある。
以下、ウィキペディアを大幅に要約する。
○佐野氏は平安時代からこの唐沢山城を拠点として、戦国時代には上杉謙信の攻撃をもしのいだ。
○1602年(慶長7年)徳川家康の意向を受けて、この山城を廃して麓に新規に佐野城を築城したものの、整備半ばの1614年(慶長19年)に突如佐野氏が改易されたために、佐野城はわずか14年で廃城となった。
○唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などがあり、理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定される。

唐沢山城から江戸の大火事が見えて駆け付けたのが、家康の不興をかったという。
見下ろしたのがいけなかったのか、有事を直ぐに知られるのが嫌がられたのか。
お城にはよくみられる「くいちがい虎口」。
佐野城と違ってこちらは随所に往時を偲ばせるものが残っている。

泊りは、鬼怒川温泉。
一泊二食、バイキング方式の食べ放題、飲み放題で、8000円と激安。
浴衣はロビーで自分の好きなものを選んで持っていくなど、徹底したコスト削減には感心した。
さらに驚いたのは、露天風呂に入っていると、ニホンザルの群れが出現し、裸の客の2~3m前を悠然と横切って行ったことである。
正直「こっちに来たらどうしようか」とビビった。

昨日違って、今日は天候がすぐれないものの、帰りは古峯神社に寄ってもらった。
私が生まれ育った会津には、集落の辻つじに「古峯神社」の石碑があり、名前はおなじみの神社であった。
一度は行ってみたいと思いつつも、これまで果たせないでいた。

かなり山の中にあり門前町などはほとんどないものの、「講」の人達が沢山来ているなど、大山阿夫利神社と多少似た感じもある。


古峯神社の御祭神は日本武尊ということであるが、一方では天狗信仰でもある。
日本古来の山岳信仰を基にした修験道が発展し、この神社になっていったのではないかと思われる。


以下、全くの蛇足である。
古峯神社へ行く途中は山また山であるが、その山々の全てに杉が植林されていた。
どの山も杉だらけ。
その山々は、あまり手入れされておらず荒れ放題であった。
本来の植生であるブナ林などはこれから光輝く緑の葉になるが、杉の植えてある山は見た目も極めて暗い。
杉の山では、実もならず動物の食べ物もできないし、いいことは全くない無い。
そして、花粉症。
戦後全力投球して杉の植林をしてきたが、これからは杉を切り倒し別の木に植林しなおして欲しいものである。
これって、八つ当たりだろうか。