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メイの家

Author:メイの家
横浜市在住


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DATE: CATEGORY:仕事あれこれ
三月というのは、卒業式をはじめとして別れの季節でもある。

ある人の退職の挨拶を聞いていて、少しウルッとした。

多少設定を変えて、記録しておく。

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私は、四国の山の中で生まれ育ちました。

工業高校を卒業した18歳の春、ちょうど42年前のこの三月に、就職のため故郷を離れました。

その頃は、「集団就職」という時代では無くなってきていましたが、まだ多少はそういう感じも残っていました。

そんな時代でした。




私の家は山の中なので、最寄の駅には6~7km程の距離があります。

駅まではバスで行くんですが、母が一緒にバスに乗って荷物を持って見送りに来てくれました。

家を出てから、ずうっと母は泣き通しで、大したことを言っているわけではなく、時々「体に気をつけて」とか「ちゃんと食べるんだよ」というようなことを言っていました。

この時既に、姉も家を出て就職していましたので、家に残っているのは、父と母だけになるというのこともあったと思いますが、母は大層心配してくれてもいて、そして泣き続けていました。


駅に着いてからも泣かれるので、「4~5年経ったらちゃんと戻ってくるから」と母に約束しました。

あの日のことは、生涯忘れられません。


今でも昨日のことのように思い出します。





就職してからは、本当に4~5年で辞めて帰ろうと考えていましたが、さて、そろそろ帰るか、と思った矢先にオイルショックが来ました。

世情は騒然としてましたし、田舎には就職するところとてなく、とてもとても帰る気にはなりませんでした。


3.11直後の状況にも似ていました。



まあ、オイルショックが無かったとしても、帰ったかどうかはわかりません。




仕事も少しずつ覚え、楽しくなってきた頃です。

仕事ですから、時にはつらく、密かに泣いたこともありました。


今と違い、昔はよい時代でした。

多少の失敗は、上司や先輩からの励ましによって乗り切ったり、独身寮では、仲間と飲んで騒いで楽しかったです。

あっという間に時間は過ぎていきました。





そして、この三月に退職するにあたり、田舎に帰ることにしました。

父は十年前に亡くなりましたが、母はまだ元気で一人で生活しています。

42年前の母との約束を、ようやく果たすことにしました。




この話を母にした時に、母はたいそう喜んでくれました。

父が死んでからは、一人暮らしでしたし、寂しかったろうと思います。


私は、幸か不幸か独身でもありますし、あの山の中で年寄りの親子二人で暮らすには、そう金もかからないだろうと思います。

仕事は畑仕事をするだけの予定です。

当分の間は母の年金だけが頼りです。




42年前は、カバン一つで出てきましたが、帰るときは荷物が増えてまして、マンションまであります。

これらを今片付けているところで、四月半ばには帰ろうと思っています。



皆様大変お世話になりました。

ありがとうございました。

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これを聞いていて、私も上京の折、母に泣かれたことを思い出した。

ついつい、ウルウルとしてしまいました。




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DATE: CATEGORY:病気
長い人生、時には眠れぬ夜という日もある。

今後のために記録しておく。



昨日は、北風が強く吹く、曇り空の寒い日であった。



職場で、ある施設が完成したので、竣工式を行った。

この施設は、屋根も壁もないがなかなか巨大な施設で、金もかなりかかっている。

「何で屋根付けなかったの?」と、私が尋ねると、

「建築物になり建築確認をもらわなきゃならなくなるし、何よりもコストがかかる」と最もな答えが返ってきた。




そんなこと分かっている。


めでたい席でもあり、マスクをするのも憚られるので、マスクを外して出席した私の本音は、「寒いし、花粉が飛ぶし、せめて今日だけ屋根と壁があればなーーー」であった。



竣工式でのおえらいさんの話は長いし、塩に米に酒をまき、時間がかかる。

約一時間半。

おいおい、機械に「塩」と「酒」はなかろうが、故障の元だろうが、というチャチャを入れたくもなる。




式が終了し、就業時間終了後は、おえらいさんの相手とともに、この施設を苦労して作った若手の技術屋を慰労してやらなければならない。


ということで、街の居酒屋に・・・。






今年は、花粉量が少ないせいか、花粉症はいたって好調である。

しかし、この時期に酒を飲んで何度も痛い目にあっているので、飲みたいという気持ちを抑えて、お茶で過ごした。


勢いが付いて二軒目に行く連中を置いて、さっさと帰宅。

そして風呂に入って就寝。





布団に入ると直ぐだった。

鼻が詰まり始めた。悪寒もする。

寝れない。

鼻を洗ってみたがだめ、また、陸上選手がする鼻を広げるテープを貼って見たがだめ。

息苦しくて寝付けない。

悶々とした一夜。






竣工式にマスクをせずに出席したせいか。

それとも、これが今年のピークでマスクをしても防ぐことができない種類のものか。


鼻づまりは今日も続いている。

おまけに咳きまで出てきた。

風邪まで引いたかなー。






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DATE: CATEGORY:我が娘・息子へ
娘が学校から持ち帰った「学校便り」に載っていた話である。

これを書かれたのは、当然ながら娘の学校の先生である。

ふと思い出したので、記憶が曖昧ながら、極めて簡単に記録しておくこととする。


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可愛がってもらっていたおじさんがいた。

おじさんといっても、両親の兄弟ではなく遠縁の親戚である。


職業は医師であった。


おじさんは、七十を過ぎても現役で診察をしていたが、ある時「癌」が見つかった。

発見されたときは、既に末期となっており、余命数ヶ月との診断であった。

職業柄当然そのようなことは、とうに承知していると思われた。




専門の医師からは延命治療を進められたが、断固拒否して、仕事を続けた。

自分の体調がいくら悪くても、患者への診察・治療を続けていた。

あまりに酷いときにだけ、自分で処方したモルヒネを注射して、痛みをまぎらわせて仕事を続けていた。


よほど自分の状況の方が悪いと思われたが、それでも患者さんを治療し励まし続けた。


おじさんは、このような生活を数年続けた。

余命数ヶ月というのは、とうに過ぎていた。





いつものように診察をしていたある時、「もうこれが限界だ、これまで皆さんありがとう」と回りの人々ににお礼を言い、自分で救急車を呼んだ。


入院した直後におじさんの意識は混沌とした。

そして翌々日には、静かに息を引き取った。




なんとも見事な生き方であった。


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と、こういうようなことが書いてありました。

「学校便り」もロクに読まない娘に代わって私が読み、そして感動して記事にするという、まあなんて親バカだと我ながら思います。

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DATE: CATEGORY:日常生活
ま昨年の大震災からちょうど一年、どのテレビ局でも関連番組が数多く放送されている。

数多くの悲劇、数多くの失敗、数多くの美談、そんなこんなを放映してる。



被災地からこれだけ離れている私にとっても忘れられない一年であった。

仕事にも大きな影響があり、相当な労力を裂かれてしまった。

放射能問題である。

東電の人とも話す機会があったが、批判はあるだろうが彼らも被害者には違いない。

文句言っても仕方がない。



それにしても復興が進まない。

原因はいろいろあるが、まずは被災地の地元の建設業者が、他県の業者を入れないことらしい。

地元の復興は地元の手でというのは格好いいが、何十年分の公共事業を抱えることによる、いわば利権化である。



もう一つは、瓦礫の他県での受け入れが進まないこと。

受け入れ市町村の住民が、放射能の危険性を叫び反対運動を続ける。

もはや安全か安全でないか、というよりも単なる感情論での反対のようである。

『絆』もなにもあったものではないし、「日本がひとつになった」なんていうのは、戯言である。




もうひとつ思うのは、原発いらないという運動はあっても、電気を使うのを減らすという運動はあまりきかないことへの疑念である。

夏場の節電はあったが、それは電力の供給が危ないからというだけのもので、喉元過ぎればすっかり元に戻ってしまった。

観光のための建物のライトアップだとか、クリスマス時のライトアップだとか、「下らないなー、止めてしまえよ」とつい思ってしまう。




というような文句はいくらでも言えるが、行動がなかなか伴わない私である。

せめてもの言い訳に、昨日妻と二人で、京急百貨店の「大東北展」に行ってきた。

支援という名目があるせいかどうかは知らないが、大変な賑わいである。
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まあ、偉そうに講釈たれても、私の目的も単に喜多方ラーメンを食うことである。

「『まるや』って聞いたことがないなぁ」と私が言うと、妻は「スーパーで、いつも売っている喜多方ラーメンには『まるや』って書いてあったかもしれない。だから大手なんじゃないの。」と言うが、真偽は定かではない。

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店は大変混んでいて、三十分も並んで入った。

味は、まあ普通の味。
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もう一つ寄ったのが、粟饅頭。

ここも長蛇の列で、饅頭買うのに並ばなきゃならないの?

と、思ったがやっぱり数十分並んで買った。

評判は高く、並んでいると「あれは旨いんだよなー」とか「あっ粟饅頭だ」とかの声も聞かれた。
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並ばなきゃならない理由が後で分かった。

粟饅頭は手作りで、生産量が販売量に追いつかないからである。

「粟がくっつくので他の饅頭と違い機械化できない」と店の人が言っていた。

近所や妻の実家に持っていくことなどから、本当は五箱買う予定であったが、後ろに並んでいる人や一生懸命作っている人の事を考慮し、遠慮して三箱にした。
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粟饅頭の味は、昔と変わらずおいしい。

しみじみと味わって食べた。

子供達も好きで、争って食べる。

先日の健康診断で引っかかり、今度の水曜日に「再検査」の予定であるが、気にしないことにした。

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DATE: CATEGORY:散歩
ヴェルニー公園は、京急では汐入駅、JRでは横須賀駅の前にある。

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この辺は、平地は狭小で山が迫っている。

汐入駅のホームから下りの横須賀中央方面を見ると、ホームの先は直ぐにトンネル。
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同じように、上りの横浜方面を見ても、ホームの先は直ぐにトンネル。
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このあたりは、山と坂ばかり。
車で入れない所、つまりは公道が「階段」になっている所が多い。

最近は高齢化が進み、山を降りて引っ越す人が多く、空き家が増えているとのことである。

汐入駅前
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こちらはJR横須賀駅で、市の中心部からは離れており、駅前には何も無い。

人通りもまばら。

ただし、ここの駅舎はなかなかよい。

たぶん戦前の建物と思われ、文化財的価値がありそうである。

駅舎内部の写真を撮り忘れたのが残念。
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ヴェルニー公園は海に面した公園で山下公園にも似ているが、潜水艦や軍艦が直ぐ目の前に浮かんでいるというのが決定的な違い。
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目の前に潜水艦が浮かぶ。

これが映画館などが入っている大規模ショッピングセンターから見える風景である。

また、ショッピングセンターの敷地と米軍基地が隣接し、基地の人が直ぐに買い物できるように入り口が作られている。

最初見たときは驚いた。

ここはやっぱり基地の町だなとつくづく思う。
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ヴェルニー記念館。(入場無料)
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ヴェルニーというのは、幕末に日本にやってきたフランス人で、横須賀製鉄所を作った人である。
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でかすぎて写真に入りきらない。
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こっちが模型。
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公園内には、こういう石碑が置いてある。

かつては帝国海軍の町であったことの名残をとどめている。
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この日は、妻と映画を見に来たついでにここを散歩した。

映画は「三丁目の夕日」の三作目である。

その感想は又次の機会に。
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