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メイの家

Author:メイの家
横浜市在住


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DATE: CATEGORY:白内障手術
白内障と診断されたことを、あっちこっちで言いまわっている。

高校時代の同窓会では、手術は怖いと同級生の女性に言ったら、「へタレ」、「根性なし」などとからかわれるし、仕事関係の女性には、私の頭を見て「白髪と同じで老化だから仕方がないんじゃないの」とか慰められたりもした。

ある友人からは、「赤ワインが効くらしいよ」と聞かされ、喜んで、それからは酒を飲むときは赤ワインにしている。


でも本当かな? と思い調べてみた。

あった、あった。

「赤ワインは白内障の予防に有効」


でも、よく読むと、いや、よく読まなくとも、「予防に有効」ではあっても、なってしまってから回復に効くわけではない。

これを発表しているのは、サントリー。
がっかりしつつも、サントリーもいろいろやっているんだな、と妙なことに感心してしまった。


でもこれからは、家でも外でも、赤ワインをメーンの酒にすることとした。

白内障のこれ以上の進行を防ぐことができるかもしれないし、というよりも酒を飲むよい口実を見つけてしまった、ということになるか。

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DATE: CATEGORY:歴史
子供の頃から、地図が好きでよく見ていた。
見飽きるということがなくてずうっと見ていた。
地図を見ただけで旅行に行った気になれるからかも知れない。


先週、五万分の一の地図を一枚千円でネットで購入した。
喜多方、若松、猪苗代の三枚である。
もっと他の地域も欲しかったが、売っていなかった。

喜多方は明治43年、若松は大正2年、猪苗代は明治41年の測量と記載されているから、約100年前ということになる。

地図を見ただけで100年前にタイムスリップした気分になった。

それにしても現在と比べてもあまり変化していないが、道路の整備と河川改修の面ではかなり変化している。
それと土地改良による区画整理であろうか。

喜多方 五万分の一の地図 

会津若松市の市街地は、現在の四分の一程度であろうか。
城の南側・西側は田園である。東側は練兵場。
北側は建物はあるものの市街地といえるほどではない。
市街地は、神明通りが終わったあたりから北の方である。
会津鉄道も只見線もまだ敷設されていない。
100年前の若松

喜多方市の市街地も現在よりはかなり小さいが、あまり変わっていいないような感じもする。
121号線が旧道のみである。日中線もない。
磐越西線の喜多方山都間が開業したのが明治43年であり、この地図の測量の年と同じである。

ついでに、堂島、笈川、姥堂、豊川の駅はこの地図にない。
息子の鉄道雑誌で調べたら昭和9年の開業である。
100年前の喜多方

坂下町も49号線を除けばあまり変わっていない。
100年前の坂下

高田町も変わっていない。
100年前の高田町

塩川町は、河川改修の影響が大きい。
おぼろげながら記憶はあるのだが、現在の橋の下が街であったということが、どうも信じられない。
100年前の塩川

神指城の跡がこれほどくっきり残っているとは思わなかった。
内堀外堀ともにほぼ正方形である。規模的にもかなり大きい。

ここからは空想であるが、上杉時代には阿賀川はもう少し西側を流れていたのではないか?
これではあまりに川に近すぎて水害が心配であるからである。

そして地図に見える外堀のさらに外側にもうひとつ外堀があった、もしくは作ろうとしていた?

さらに、上杉家が会津に残っていたら、この辺が中心地になっていた?
神指城跡

北田城は中世の城であり小さい。
いまひとつはっきりしないが、でもなんとなく感じが残っている。
北田城跡


この地図を見てわかることは、
1 明治の頃には盆地の各地に「水車」が多数あった。
2 現在では一面の水田地帯であるが、かなり森林が多かった。
3 道路の大半は、江戸時代そのままだと思うが、主要な道は既に改良工事がなされているようだ。
4 区画整理は既にあちらこちらで実施されている。


100年後はどうなっているだろうか。
人口減の影響はどう反映しているのだろうか。
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DATE: CATEGORY:写真
お盆に帰省をした。
お墓参りと山登りが目的であったが、山登りは天気に恵まれず断念した。

しかし、気が治まらず車で雄国沼へ行った。
ここから見る会津盆地は地図のように見える。

会津の風景4

このような田園風景が好きだ。
見飽きるということがない。
会津の風景2

会津の風景3

会津の風景6


子供頃は学校まで遠いなあと思っていたが、今歩くと結構近い。
我が子供たちからみても「近い範囲」、と言っている。
母校に会った二宮金次郎の像。
会津の風景1

ビニールハウスにあたる夕日。
会津の風景5

とりとめもなく、私の夏休みが終わった。

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DATE: CATEGORY:イベント
お盆に帰省する前、小田原市に通夜に行ってきた。

私の住む横浜市では、葬儀をやっても家族葬でやるので、弔問不要、というのが最近極めて多くなり、通夜に出かけることも少なくなった。

仮に通夜にでかけたとしても、葬儀場の入り口で受付を済ませ、祭壇で焼香し、お清めとしてビール一杯と寿司一つぐらいいただいて帰る、という簡素なもので、ものの10~20分程度のものである。


小田原市での通夜は、さすがに城下町だけあって、横浜のような簡素なものではなく、通夜のはじめから終わりまで一時間と少しぐらい拘束された。最後に、お坊様の法話が合った。

お坊様がある女性から聞いた、という話である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある女性が小さい頃、近所からびわ(杏だったかも)をいただいた。

大変美味しく食べ、残った種を捨てようとしたら、お母さんから「一つの種でも一つの命があります。庭に蒔いてみなさい。芽が出るかもしれないよ。」といわれた。

そして、その種を庭の片隅に植えたところ、芽が出てきた。
「ね、御覧なさい。二つの芽が両手を合わせて合掌しているようでしょう。ありがとうって言っているのよ。水をあげなさい。あなたが学校に行ってる間は私が水をあげますよ。」


やがてその木は大きくなり実をつけた。
お母さんが言った。「その実を近所の人へ持って行きなさい。」
近所へ配ってくるとお母さんが言った。
「なんか言われた?」

「ありがとうって感謝されたよ」

「そう、良かったね。木もきっと感謝しているよ。近所の人が替わって言ってくれたのかもしれないよ。」




それから月日はたった。娘さんも成人した。


神戸淡路大震災が起こった。


その人の家は1階が潰れてしまった。たまたま朝食を作りに1階の台所にいた母は、押しつぶされてしまった。

娘さんとお父さんは二階にいて助かった。

娘さんがお母さんを助けようと近寄ると、お母さんは虫の息にかかわらず「お前は大丈夫かい」とまず娘のことを心配した。
自分のことは全く何も言わずただただ娘のことを気にした。

父がなんとか助けようとするがどうにもならない。

救急車を呼ぼうにも電話もつながらないし、道路も塞がっている。

そのうちに火事が広がってきた。

「もう私のことは構わないで逃げなさい」とお母さんはいう。
お父さんは「一緒にここにいる。一緒に死ぬ。」と家から動かない。

家に火がつき始めたとき、お母さんは「私のことは仏様が守ってくれます。あなたを必要とする人が他に大勢います。人のために命を遣いなさい。」と諭す。
さして虫の息ながらも静かにお経をとななえはじめた。

やむなく娘さんとお父さんは避難した。

そして、避難所では、お母さんの言うとおり体の不自由な人などの世話をし続けた。

自宅付近はひどい惨状で、立ち入り禁止が続いていた。

お母さんのことは気になったがいかんともしがたい。
ひたすら他人の世話をした。


一ヶ月がたった。

自衛隊が自宅付近を片付けるというので立会いに往ってみたが、何がなんだかわからない。
母は見つからない。

ところが「こっちです、こっちです。」という声がする。

行ってみると子供の頃に種を蒔き大きくなった木が、半分以上燃えていたが、なんとか残っていた。

「お母さんはここにいますよ。ずうっとお守りしました。」という声が聞こえた。

その木の根元を掘ると、なんとお母さんの頭蓋骨が出てきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

というような内容の法話であった。
若干の記憶違いもあるかもしれない。

お母さんが亡くなったということで、お坊様は、「母の愛の深さ」というテーマで話されたのだが、私は「恩返し」ものにとってしまった。



お盆である。





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DATE: CATEGORY:二宮尊徳
先日今市に行った際にいただいた資料に、二宮尊徳の最後の言葉が書かれていた。


鳥のまさに死せんとす、
その鳴くや悲し、
人のまさに死せんとす、
そのいうや善し、
慎めよ小子、
速やかなるを欲するなかれ、
速やかなるを欲すれば、
すなわち大事を乱る、
努めや小子、
倦むことなかれ


門人が枕元で代筆したという。

急がず、一歩一歩着実に、ということだろうか。



死の前年の12月25日の日記には、

余が足を開け、
余が手を開け、
余が書簡を見よ、
余が日記を見よ、
戦々兢々深淵に臨むが如く、
薄氷を踏むが如し


と書かれているという。

これはどういうことを意味するのであろうか。
百姓出身であったため、なにかと武士から妨害を受けたことも多かったことについての、武士階級に対する心の中の思いであつたのだろうか。

それとも、百姓をどう救済しようかという日々の苦心であったのだろうか。


二宮尊徳は、身長が180cm程あったという。
江戸時代末期のことであるから、今なら2mを超えている感じだろう。

そんな巨体の人ではあるが、遺言といいこの日記といい、二宮尊徳という人は極めて慎重に物事にあたった人なのだろう。

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DATE: CATEGORY:二宮尊徳
8月2日、今市に、二宮尊徳の日光仕法の関係施設を見に行った。
総勢8名の参加であった。

現地では、いまいち一円会の会長さんと前会長さんにご案内いただいた。
その上、大量の資料のほかに行程表まで作成してあり、誠に感謝、感謝である。
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そもそもここに至ったいきさつは、かつて上司であったJさんを講師として、相馬藩士であり二宮尊徳の弟子であった富田高慶が書いた「報徳記」の読書会に参加し、その読書会がこのたび終了した記念に今市に行くことになったためである。

読書会へ私が参加した動機は、「ボケ防止」であったが、十数年来趣味で勉強してきたJさんの講師ぶりは、まさに玄人はだしであり、この読書会はJさん無しには続かなかった。
仕事の関係で何度か欠席はしたものの、「ボケ防止」の範疇を超えてなかなか勉強になった。

今回の見学も段取りの全てはJさんにやっていただいた。
感謝、感謝である。


いただいた資料によると、
1844年 弘化元年 幕府から日光神領復興見込み調査を命じられる。
1846年 弘化3年 富国方法書84巻を幕府に提出。
1852年 嘉永5年 日光神領の仕法開始を願い出る。
1853年 嘉永6年 日光神領復興の命を受ける。
1856年 安政3年 二宮尊徳死去。以後息子の尊行が仕法を行う。
1868年 明治元年 戊辰の戦火により尊行相馬へ移住。

と、日光仕法は、親子二代で足かけ16年ほどである。


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二宮神社にある尊徳のお墓。

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報徳仕法役所跡にある報徳新興会館に掲げてある「徳を以って徳に報いる」の額。

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「沢蔵司稲荷仕法」とは、信仰していた沢蔵司稲荷を管理するために尊行が考案したもので、51年の長期計画で12両を地元住民に貸付し、利子1割の複利計算で終年には158両となる。これを永久に据え置き利子の15両3分を活用して維持管理費とするものである。
大正年間まで続いたそうである。

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右から左へ流れる川を横切って、向こう側からこちら側へ流れる用水。
川が渇水しても増水しても、農業用水は流れるという。こんなのは見たことが無い。
二宮尊徳とは、土木技術者としてもすごい人である。

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以前は山林であったところが、用水開発により新田が開かれ、今では田園地帯となった。

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開墾地も今では、市街地となっており、面影は無い。

いただいた資料によると、今市における仕法の実績としては、
1 廻村と指導・・・18人の門人で5,866回行った。「いもこじ」といわれる民主的話し合いの場を通じて指導に当たった。

2 荒地起返し・・・326町歩余で、人足2,800人、人足入用金2,900両を投ずる。

3 用水掘りの開削・・・17,900余人で1,180両余を投ずる。用水掘り103本のうち33本が二宮堀。

4 出精人の表彰・・・311人を表彰し、金74両、鍬113丁、鎌362丁を与える。表彰者は全村民一人一票の投票で決定。

5 困窮者の救済・・・221人に219両2分を与える。

6 無利息金の活用・・・生活苦、病気等により3,336人に5,475両を無利息で貸し付ける。

7 潰れの再興・・・仕法農家や灰小屋を作り、農地も与え再興を図った。

8 植林の奨励・・・72,105本を植える。

9 大開発・・・五大地開発(今市瀬川入会地、今市大谷向、芹沼倉ケ崎入会地、大渡、板橋)

10 冥加雑穀の上納


総計25,000人以上の人足を動員し1万両近くを援助したという。
相馬藩からも相当数の冥加人足の応援があり、「相馬には足を向けて寝られない」との話があった。


日帰りの慌しい見学であったが、案内いいただいたお二人には感謝感謝である。
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DATE: CATEGORY:読書
みちのく麺食い記者・宮沢賢一郎 奥会津三泣き 因習の殺意
本屋でこのタイトルを見たとき、なんだこりゃ? と思いつつ、つい買ってしまった。
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観光、グルメ、そしてミステリー、と2時間ぐらいのサスペンスドラマになりそうな、推理小説である。

ええーーー????という点がいくつかあったので、ヤボ、を承知しつつも、ストーリーに触れない範囲で紹介してみたい。

○登場人物
宮沢賢一郎・・・・・大和新聞の記者。東北総局遊軍担当で、産休者の代替で会津若松支局に二週間前に派遣された。
かつては東京本社でスクープをものにする天才肌だが、いろいろあって左遷。女性に大変もてる。
携帯の着メロが春日八郎の赤いランプの終列車。

田名部昭治・・・・警察庁のキャリア捜査官。身長192cm。東大法学部を三番で卒業。なみいる省庁からの誘いを断り警察庁に入る。
現在警視庁捜査二課の管理官。

坂内春香・・・・東京の人だが、仕事に疲れた時昭和村のからむし織の「織り姫」の体験イベントに参加し、昭和村が気に入り住み付く。
その後、村役場職員と結婚するが、すぐに夫は癌で亡くなる。しかし、昭和村が好きで昭和村喰丸に義父母とともに暮らしている。
大和新聞会津若松支局の編集助手。

稲本芳正・・・・奥会津が地盤の与党の大物の二世議員。
父も大蔵大臣を務め、「会津っぽ」いわれた気骨ある政治家であった。


○こんな移動は可能か?
宮沢賢一郎は、昼食に山都でそばを食っている最中に殺人事件の連絡が入り、事件のあった田子倉ダムに車を走らせる。
これは、「河井継之助」と関係があると感じて、河井継之助記念館に立ち寄り見学する。
その後、田島町の警察署で記者会見に立ち会う。
そして、坂内春香を昭和村喰丸に送り、ついでに春香がからむし織を織るところを見学する。
最後に会津若松に帰り、郷土料理店で地酒を飲む。

これがなんと半日の行程である。
ちなみに、山都でそばを食べているときに「SLばんえつ物語号が郡山方面に出発した」とされており、裏づけを採るために時刻表で調べてみると山都駅は12時49分発であった。

距離をマップファンで調べてみると、約280km、平均時速40kmで走って約6時間かかる。
「季節は、3月末、道路の工事が多くてあっちこっちで片側通行である」ともされている。

よほどのスピードで走ったのか?

おまけに、SLばんえつ物語号は会津若松までしか行かない。「会津若松方面に出発した」として欲しいところである。


○因習
このミステリーのポイントでもあるが、昭和33年狩野川台風の際、桧枝岐村では水害に襲われ、作物がとれず「間引き」が行われようとした、とされている。桧枝岐村とはいえ、昭和33年でのこの話は無理ではないのかな?


○現代の因習
奥会津は道路の整備が遅れており、冬季は雪で不通になるところも多い。これでは、冬は病院に長期入院するしかなくなってしまう。
会津の山間部に住む老人は冬場には死を覚悟せざるを得ない。これは現代の間引きだ。

ということで、それこそ昭和33年ごろならば理解できるが、「アメリカ発の金融危機」も書かれているところをみると、今年の3月4月頃の話の設定であり、この論理の展開にも無理があるなぁと思う。


○守旧派対改革派
建設業界において、守旧派は一次下請け、二次下請け、三次下請けという縦系列であるが、改革派は自分の得意分野で集まった横系列のグループ化である。
改革派は新たな時代を切り開くべく画策するが、これが守旧派の反感を買い事件の契機となる。

でもなぁ、既にあるJVとかSPCとか言われるものは、横系列のグループ化じゃないの?
いまさら改革派でもないんじゃないの?


○完全犯罪
死体を完全に消し去るために、岩魚の養殖池に入れてしまう。岩魚は悪食なので何でも食べてしまい、死体は残らない。
おいおいピラニアだって、骨ぐらいは残すだろうよ。まして、岩魚だよ、いくらなんでも・・・・。
いや、死体をミンチにすれば可能か?
でもそこまでしなくとも、奥会津は山ばかりだから埋めたほうが手っ取り早いのでは?


ほかにもいろいろ??の点はあるが、これはフィクションなのだからこの辺にしたい。

グルメの方は、山都のそば、桧枝岐の裁ちそば、こづゆ、鰊の山椒煮、馬刺し、岩魚料理、そして最後はソースカツどんであった。

テレビドラマ化されたときは是非見てみたい。

坂内春香役の女優さんは誰がいいだろうか?
けなげで、かわいくて、お色気もあって、義理人情もあって、その上ちょっと複雑な生い立ちもある、という難しい役である。
楽しみにして待ちたい。

   
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