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メイの家

Author:メイの家
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DATE: CATEGORY:歴史
前回のハイキングの続きであるが、ここでは会津藩士の墓だけをまとめることとした。


会津と横須賀の関係は結構古く、まずは横須賀から会津へ行ったケースである。

源頼朝を擁立した関東武士団の中でも有力な三浦一族であるが、その中心は大介・三浦義明である。

その子の佐原十郎義連が1189年の奥州藤原氏征伐での戦功により源頼朝から会津を与えられ、その子孫が会津にやってきた葦名氏である。


その次は会津から横須賀に行ったケースである。

会津藩が幕末の1810年に幕府から江戸湾警備の任務を命じられ、多くの会津藩士がやってきた。

以下、<横須賀市ホームページ>からコピーさせてもらう。

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命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を会津藩領としました。

任務につくと観音崎と浦賀の燈明堂近くの平根山へ三浦半島で最初の台場を造り、守りを固めました。

この任務が永遠に続くものと思っていた会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩士の教育機関である藩校の養正館も設けられました。

ちなみに江戸湾警備についた他の藩はすべて単身赴任でした。

このような状況のもと、横須賀で生涯を閉じた会津藩士およびその家族も多く、現在確認できる墓石だけでも70基以上にのぼります。

会津藩は文政3年(1820)にその任務を解かれますが、ペリーが来航した嘉永6年(1853)には房総半島で再び任務に就き、ペリーが久里浜へ上陸した時には海上警備をしていました。

明治維新で会津藩が新政府軍に破れると、会津を離れ、因縁深い横須賀へ新天地を求めて来た人も多く、その子孫の方が現在も住まれています。
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西徳寺

西徳寺は鴨居港の近くにある浄土宗の寺である。
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会津藩士の墓の案内板がありわかりやすい。
ということは、私のような物好きが訪ねてくることが多い、ということだろうか。
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無縁となった墓地を整理して集めたようである。
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途中の道は結構きつい山道であった。
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到着。説明の看板もある。
藩校「養正館」には、40名ほどの子供がいたという。
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お墓の周辺はきちんと手入れされており、手厚く管理されている。
ただ、水を入れたペットボトルがたくさん置かれているのが景観として少し違和感がある。
この近くに防衛大があり、そこの福島県出身者の有志が手入れしている、というのを新聞か何かで読んだ記憶があるが、定かではない。
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山道のハイキングコースにもなっているようである。
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この西徳寺の近くに「鴨居陣屋」や藩校「養正館」があったというが、現在は住宅地で何も残っていない。

町内会館の壁に説明書きの看板が掛かっているだけあり、とても写真を撮る気にもならなかった。



腰越墓地

ここは鴨居港から観音崎のトンネル方面に進んだところにある墓地である。

ここも案内板の表示がたくさんありわかりやすい。
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鶴ヶ城の写真とともに説明書きがある。

800人以上の会津藩士とその家族が来たとのことであり、藩士の子供や家族の墓もある。

よくわからないのは、他の藩は単身赴任であったのに対し、会津藩だけがどうして「この任務が永遠に続くものと思って一家をあげて横須賀に移住してきた」のだろうか。

軍事目的だけなら単身赴任が妥当であるが、この役目に伴い三浦半島全域が会津藩領になったというから、屯田兵的な開墾も行っていたか、また領地経営のための行政職としての赴任もあったのか。

しかし、1821年には三浦半島は会津藩領では無くなった。

その後の京都所司代、戊辰戦争のバターンと同じで、一生懸命に対応するのだけれども、どうにも要領が悪いというか、情報収集不足というか。

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ベンチも置かれてここもきちんと整備されている。
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藩士の奥さんのお墓だろうか、娘さんのお墓だろうか。
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円照寺

円照寺は、走水神社の近くにある日蓮宗のお寺である。

円照寺そのものは直ぐにわかったものの、会津藩士のお墓に関する看板も無く、その場所がなかなかわからなかった。

いろいろ探し回った後、境内にいた人に訊いてようやくたどり着いた。
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会津藩士6人と川越藩士1人の墓であるというが、境内の片隅の極めて狭い場所に集められていた。

たぶん昔はもっと広々としていたものと思われるが、お墓を分譲するためのスペース確保が必要になったからであろう。

ハッキリ言って「処分するに処分はできないし、困った邪魔もの」という扱いであるが、お寺の経営もあると思うし致し方のない話である。
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今回のハイキングコースでは、以上三か所立ち寄ったが、このルート沿いにもう一つ会津藩士の墓があるお寺「能満寺」があったのだが、すっかり見落としてしまった。

三浦半島には、会津藩士の墓が九か所あるとのことなので、また次の機会に尋ねることにしたい。
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DATE: CATEGORY:歴史
私の実家の近くに、神社がある。

どうということない小さな神社であるが、あるとき、周辺にある他の神社と何か趣が違うのではないか、と思うようになった。


それは建物に理由があるのではなく、敷地が妙に重々しいような感じがしたからである。

神社の周囲は、現在は埋まっているものの、明らかに堀をほったような形跡があり、その土は神社敷地に盛ってあるような、、、、そんな感じに思えた。


中世の豪族の居館跡かとも思えるし、伊達政宗の家臣片倉小十郎が一時住んだとの話もあるが、これは誤りである、との話もありよくわからない。



先月のお盆に帰省した折、ふと「村史」を紐解き、眺めていたら
「この神社の由来はわかっていない。古墳とする向きもあるが、形状から見てそうではない。」
というようなことを、専門家の方が書いていた。




やっぱり、古墳なんて考えるのは、素人の妄想か、と笑ってしまった。





先週ひょんなことから、国土変遷アーカイブなるものを知った。

これは、国土地理院が保有する、戦後から現在までの国土の変遷が分かる空中写真の画像データがネットで見られるものである。


ここ→国土変遷アーカイブ

この中で最も古いものは、終戦直後に米軍が軍事目的で、日本全国をくまなく撮影した写真である。

これを見て驚いた。


あの神社はやっぱり古墳であったのではないか!!!


下の写真は1947年10月9日に、米軍によって撮影されたものである。

中央の森林部分が神社のあるところであるが、これをを見るとどう見ても古墳に見える。

「村史」を書かれた方は、現在の姿しか見ていないのではないか。だから古墳ではない、としたのではないか。
でも、これを見たらどうだろうか?
古墳?



こちらの写真は、2年後の1949年2月24日に米軍によって撮影されたもの。

古墳?の下半分が失われている。
これは現在の神社の敷地とほぼ同じと思われる。
古墳2


村の教育委員会の方々に、是非、発掘をお願いしたい。
三角縁神獣鏡は無理としても、石棺ぐらいは出てくると思う。
場所は、たぶん、現在鳥居があるあたりか。


そうなれば、「村史」を書き換える事態となる。(あんまり大したことはないが)


テーマ : 日本の原風景 - ジャンル : 写真

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DATE: CATEGORY:歴史
子供の頃から、地図が好きでよく見ていた。
見飽きるということがなくてずうっと見ていた。
地図を見ただけで旅行に行った気になれるからかも知れない。


先週、五万分の一の地図を一枚千円でネットで購入した。
喜多方、若松、猪苗代の三枚である。
もっと他の地域も欲しかったが、売っていなかった。

喜多方は明治43年、若松は大正2年、猪苗代は明治41年の測量と記載されているから、約100年前ということになる。

地図を見ただけで100年前にタイムスリップした気分になった。

それにしても現在と比べてもあまり変化していないが、道路の整備と河川改修の面ではかなり変化している。
それと土地改良による区画整理であろうか。

喜多方 五万分の一の地図 

会津若松市の市街地は、現在の四分の一程度であろうか。
城の南側・西側は田園である。東側は練兵場。
北側は建物はあるものの市街地といえるほどではない。
市街地は、神明通りが終わったあたりから北の方である。
会津鉄道も只見線もまだ敷設されていない。
100年前の若松

喜多方市の市街地も現在よりはかなり小さいが、あまり変わっていいないような感じもする。
121号線が旧道のみである。日中線もない。
磐越西線の喜多方山都間が開業したのが明治43年であり、この地図の測量の年と同じである。

ついでに、堂島、笈川、姥堂、豊川の駅はこの地図にない。
息子の鉄道雑誌で調べたら昭和9年の開業である。
100年前の喜多方

坂下町も49号線を除けばあまり変わっていない。
100年前の坂下

高田町も変わっていない。
100年前の高田町

塩川町は、河川改修の影響が大きい。
おぼろげながら記憶はあるのだが、現在の橋の下が街であったということが、どうも信じられない。
100年前の塩川

神指城の跡がこれほどくっきり残っているとは思わなかった。
内堀外堀ともにほぼ正方形である。規模的にもかなり大きい。

ここからは空想であるが、上杉時代には阿賀川はもう少し西側を流れていたのではないか?
これではあまりに川に近すぎて水害が心配であるからである。

そして地図に見える外堀のさらに外側にもうひとつ外堀があった、もしくは作ろうとしていた?

さらに、上杉家が会津に残っていたら、この辺が中心地になっていた?
神指城跡

北田城は中世の城であり小さい。
いまひとつはっきりしないが、でもなんとなく感じが残っている。
北田城跡


この地図を見てわかることは、
1 明治の頃には盆地の各地に「水車」が多数あった。
2 現在では一面の水田地帯であるが、かなり森林が多かった。
3 道路の大半は、江戸時代そのままだと思うが、主要な道は既に改良工事がなされているようだ。
4 区画整理は既にあちらこちらで実施されている。


100年後はどうなっているだろうか。
人口減の影響はどう反映しているのだろうか。
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DATE: CATEGORY:歴史
一昨日、会議中に、ブー、と一発屁をこいた人がいた。

さすがに、みな大人の対応であり、何事もなく会議は続いたが、こんなところで屁ができるなんて、大したものだと感心してしまった。

そしてこんな話を思い出してしまった。

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「関八州古戦録」 填島昭武原著 霜川遠志訳  より


下総の国、印旛郡佐倉の城主千葉邦胤は、天正十六年正月の藩中の年賀行事を城中で行っていた。
旗本たちは大勢集まり、例年通り礼式を終わり書院で供応があったが、その時、鎌田万五郎という近習が、配膳中に、二度まで放屁した。


邦胤大いに怒って「この目出度い席上、屁をひることは何事だ!」
万五郎「ははぁ・・・・」
邦胤 「それも二度まで、予をないがしろにしてからのことであろう」
万五郎「けっしてそのような、つい思わず・・・・」
邦胤 「思わずとは何事だ。思ってひれば反逆の大罪である。予に何か遺恨があってのことか」
万五郎「もってのほかのことでございます。とりはずしたるは手前の不覚。世に、出もの腫れもの所かまわずと申します」

これを聞き、怒り心頭に発した邦胤は、座を立って来ると、万五郎を蹴倒し、脇差に手を掛けた。
周囲の重臣が驚いてその刀にすがり、万五郎を引きずり出して事なきを得たが、双方に遺恨を残した。
万五郎は、そのまま椎津主水正に預けられた。

殿も殿だが万五郎も万五郎である。出もの腫れもの、などと言わず恐縮しておればよかったのである。


それでも、ようやく五月になって万五郎への勘気は許された。
そして以前のように出仕したが、どうしても正月のことが忘れられない。

ついに、七月四日の夜詰めの日、万五郎は邦胤の寝所に忍び込み、二太刀切りつけて逃げた。
次の間に宿居していた家臣が駆けつけると、邦胤は朱に染まって倒れ、虫の息の下からようやく、「鎌田めを逃がすな」とつぶやいて息絶えた。

一方、万五郎は城外まで逃げたが、捜索隊が充満しており、ついに林の中に入って腹をきって死んだ。




なお、この時、鎌田万五郎は18歳であった。
また、千葉邦胤には12歳になる嫡男重胤がいたが、北条氏直はこれに相続を認めす゜、小田原城への人質とした。
が、その北条氏も2年後に、秀吉の小田原攻めで滅んでしまった。

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千葉邦胤は、ウィキペディア(Wikipedia)にも載ってます。
ただし、「鎌田」が「桑田」になっていました。


ウィキペディア(Wikipedia)』の千葉邦胤

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