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メイの家

Author:メイの家
横浜市在住


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DATE: CATEGORY:我が娘・息子へ
いよいよ就活が始まった。

わが娘の悩みは深い。

どの業種がいいのか、どの会社がいいのか、と問われてもこちらによい回答はない。

自分が所属する業種のことは多少は知っていても、全ての業種に通じている人などいるわけはない。

また、同じ会社にいても、出世した人は「この会社はいい会社だ」と言うだろうし、途中退社した人なら「とんでもない会社だ」と言うだろう。

どっちみち個人的な経験の範囲を超えることはできない。

まして、東芝やシャープのような世界的大企業でも、経営者の判断ミスにより大きく経営が傾くこともあり、先のことなど見通せない。






こう言ってみたが、娘の表情は冴えないまま。

そこで我が友人、Iさんが言っていたことを思い出して言ってみた。



Iさんは何度か我が家にも来ており、「大いびきで寝ていた人」と言えば、うちの家族はみなわかる。

Iさんは就職の面接試験の日に、すっかり寝坊してしまい、面接に行けなかった。

仕方なく彼は、翌日の同じ時間に面接会場に出かけていった。

その日も面接は行われていて、当然別の人が面接を受けていた。

そこで面接官に、「面接日を一日間違えた、是非面接をして欲しい」と訴えた。



面接官からは最初は全く相手にしてもらえなかったが、必死に訴えるIさんに根負けしたのか、同情したのか、とうとう面接をしてあげる、ということになったそうだ。

結局これが功を奏して、見事合格し採用となった。

私の記憶では、その時の面接官は3~4人で1チームを組んでいたので、特定の面接官の気まぐれだけではなかったはずである。



この粘りがなければ、私も彼と知り合うことはなかった。

何事もあきらめないのが大事なんだよ、などと言っていたら、意外なことに妻とゲーム中の息子に受けてしまった。

Iさんは我が家ではヒーローになった。




肝心の娘は、「時代が違うしなー」と言っていたが、確かにあの頃は「自己責任」などという言葉はなかったし、右肩上がりの経済が続くことを誰もが疑っていなかった。

それでも私は思うのだが、いつの時代でもあきらめない人が最後には勝つのだと。

しかし、娘の質問の回答には全くなっていない。


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DATE: CATEGORY:我が娘・息子へ
娘が学校から持ち帰った「学校便り」に載っていた話である。

これを書かれたのは、当然ながら娘の学校の先生である。

ふと思い出したので、記憶が曖昧ながら、極めて簡単に記録しておくこととする。


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可愛がってもらっていたおじさんがいた。

おじさんといっても、両親の兄弟ではなく遠縁の親戚である。


職業は医師であった。


おじさんは、七十を過ぎても現役で診察をしていたが、ある時「癌」が見つかった。

発見されたときは、既に末期となっており、余命数ヶ月との診断であった。

職業柄当然そのようなことは、とうに承知していると思われた。




専門の医師からは延命治療を進められたが、断固拒否して、仕事を続けた。

自分の体調がいくら悪くても、患者への診察・治療を続けていた。

あまりに酷いときにだけ、自分で処方したモルヒネを注射して、痛みをまぎらわせて仕事を続けていた。


よほど自分の状況の方が悪いと思われたが、それでも患者さんを治療し励まし続けた。


おじさんは、このような生活を数年続けた。

余命数ヶ月というのは、とうに過ぎていた。





いつものように診察をしていたある時、「もうこれが限界だ、これまで皆さんありがとう」と回りの人々ににお礼を言い、自分で救急車を呼んだ。


入院した直後におじさんの意識は混沌とした。

そして翌々日には、静かに息を引き取った。




なんとも見事な生き方であった。


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と、こういうようなことが書いてありました。

「学校便り」もロクに読まない娘に代わって私が読み、そして感動して記事にするという、まあなんて親バカだと我ながら思います。

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DATE: CATEGORY:我が娘・息子へ
先日、スティーブ・ジョブス氏死去されて、大きなニュースになった。


ある飲み会でわが師匠のGさんとスティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学の卒業式での挨拶が話題になった。

テレビで故人の功績を紹介する際に取り上げられていたので、「Stay Hungry. Stay Foolish.」だけは知っていたが、全部は聞いていなかった。



それで、妻とともにネットで改めて聞いてみた。



深い。

いろいろ考えさせられることが多い。

スピーチはこちら


点と点を繋ぐ

愛と敗北




の三つをテーマにしていた。




印象に残った言葉は数々あるが、中でも「直感に従え」が一番であろうか。


余計なことを書くと、こちらのレペルの低さが露呈してしまうのでやめておく。




我が娘と息子にも、後々聞いてもらいたい。




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DATE: CATEGORY:我が娘・息子へ
筋無力症のために、寝たきりの生活を送りつつも、夢と希望に力いっぱい生きた永谷由美さんの話を記録しておきたい。

これは、私の師匠でもあるGAIAさんのブログ(GAIAさんのブログ)で知ったものだが、この記事をほとんんどまるごと転載させていただく。



なお、GAIAさんには、昨日の飲み会でご了解いただいた。

ただ、GAIAさんもどこからか貰って来たものらしい。

また勝手ながら、読みやすいように改行をかなり入れさせていただいた。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


 ゆみりんの自己紹介(永谷由美さんのホームページより)

 私は皆さんと同じ地球人です。
でも、日常、使ってる言葉は三河弁と英語と各国語の「こんにちは!」です。
私は、残念ながら生まれた時から自分で立って、歩いたことはありません。
普段は、ベッドの上で一日中過ごしています。
でも、朝から晩まで眠ってはいませんよ(爆笑)


 私は、寝たまま遊び、勉強し、お仕事をする人です。
仕事は英語を教えることです。

寝たままいろんなことができるなんて、まぁ、何てステキなことかしらん!
とお思いでしょうが、実は、初めは私も本当にただベッドで横たわって、息をしているだけの毎日だったのです。

 1983年 愛知県立安城養護学校中学部・訪問部にて義務教育終了後、両親以外に会う人もなく、時間の感覚もなくなり、私は「何の為に生まれてきたのか」と、くよくよ考えるようになりました。

しかし これでは駄目だとある時、気が付いたのです。

 そして私は、夢と希望を持って生きることを決意しました。



私の好きな言葉

"Dreams come true!" by Madonna

「念ずれば花ひらく」by 坂村真民

「だいじょうぶ」by 杉浦祖玄


 
 私は世界中にお友達ができたら、素敵だろうなと思い、1984年 4月テレビとラジオの英語講座を利用して、独学で英語の勉強を始めました。


3年後、1986年11月 文部省認定 日本英語技能検定試験 3級合格。
1988年 7月には、同試験の 2級、1989年 7月には、準1級に合格。
準1級に合格して、まもなく、ある人が私に英語を教えることを勧めました。


「家で英語を教えてみなさい。おまえが寝たきりで動けないのは俺の顔の色が黒くて、汚いのと同じだ。英語を教えるには、目が見えて、耳が聞こえて、口がきければそれでいい」


私はハッとしました。



今までは自分の悪い所にしか目がいかず、自分に残されているいい所を全部忘れていたのです。

私はマイナス思考からプラス思考に考え方を換え、それ以来、自宅で寝たまま中高生や社会人に英語を教えています。


それから積極的に外出するようにもなり、お友達もでき、やっと世界で一番不幸だと思っていた私は、自分は一人で生きているんじゃないんだと気づき、周りで支えてくれてる人達のことを感謝するようになりました。



 1995年 4月 1日から14日までは、米国人の友人達やその他の多くの方々の支援で長年の夢が叶い、これまた寝たまま飛行機に乗り、米国を訪問。
ロサンゼルスとサンフランシスコに各一週間ずつ滞在。

独学で学んだ英語を心行くまで試すことができ、両親の通訳にもなり、初めて親孝行ができたかなと嬉しく思いました(^o^)



 アメリカで私は、とてもカルチャーショックを受けたことがあります。

向こうでは、人工呼吸機を常に付けている、私よりも重度な障害者の方が朝、九時から夕方、五時まで働いて、自立して生活をしているではあ~~りませんかっ!

私はあまりの驚きに言葉も出ませんでした。


 アメリカにいる時、私は自分が障害者であることを度々忘れていました。

整った環境が自分の不自由さを殆ど取り去ってくれていたからです。
毎日、外へ出るのが楽しくて、車椅子に乗っている時間も日本にいる時よりも長くなりました。

精神的にも肉体的にも外出が楽しくなる国、アメリカだったのです。
残念なことですが、今の日本では自分の障害により不自由な生活を送っているというよりは、現在の社会体制により不自由にさせられていると感じました。


 帰国後は、我が国とアメリカとの差にショックを受けて、打ちひしがれていた私のもとに、私の生き方やアメリカ訪問、福祉のこと等を話して欲しいと、小中学校やお寺、医師会に看護婦さんの友の会とかあらゆる所がベッドを用意して、私を招いて下さるようになりました。


 毎回、私を初め見て、皆さんと~~~~~~~~~~~~ても驚かれますが、私の話しも終わる頃には「なぁんだ、同じ人間じゃん!」という表情とまなざしで私を見てくれます。


私はこれが嬉しくて、他の体の不自由な地球人を見かけても同じ表情とまなざしをしてもらえたらと思い、寝たきりだけど何処へでも行き、そして少しでもアメリカのような環境に近づけたらと、人々の理解を深めようと、私は体調と天候が許す限り、アクティヴに活動する人でもあるのです。


 又、パソコン通信という素晴らしい文明の利器を利用して、自分の世界を益々と広げてもおります。

楽しいんだな、これが(^v^)


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★




ここからは、GAIAさんの言葉になる。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○この自己紹介文を書いたゆみりんこと永谷由美さんは、平成9年1月呼吸不全のため死去されました。29歳でした。

由美さんのみなさんへの問いかけです
 あなたは 一度しかない人生を どんなふうに生きていますか

由美さんの決意
 私は 夢と希望をもって生きていこうと 決意しました

由美さんの気づき
 私はマイナス思考からプラス思考に考えを変えました

由美さんの感謝
 世界で一番不幸と思っていた私は 自分は一人で生きているんじゃない 周りで支えてくれる人たちに感謝するようになりました

由美さんの願いのかなえ方
 自分がかなえたいと 願っていることを
 いつも口にしていると 必ずかなうんだよ

由美さんの私たちへのお願い
 他の体が不自由な地球人をみかけても
 「なーんだ おんなじじゃん」と同じ表情とまなざしをしてくださいね

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


永谷由美さんはすでに亡くなられたとのことですが、その精神は、こうして大勢の人々に伝わっていくと思います。

そんな事も考えながら、記事としてはちょっと手抜きだとは思いますが、転載させていただきました。

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DATE: CATEGORY:我が娘・息子へ
イチローの100安打達成のニュースに、考えさせられる記事を見つけた。


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2009年06月25日  スポニチ

イチロー“想定外”の量産ペースで200安打へ加速

イチローは、今季誰よりも早く100安打に到達したことを知らなかった。「一番初めなんですか?」。淡々と抑えた口調に、かすかな驚きがまじる。

 無理もない。開幕直前に胃潰瘍で故障者リストに入り、8試合の欠場を余儀なくされた。ハンディをはね返しての一番乗りは、さまざまな壁を乗り越えてきたイチローでさえ「ちょっと想定外」だったのだ。

 ただ「ヒットが出ることは別に驚かない」とも言った。打撃のメカニズム、調整に大きな問題は見当たらない様子だ。それなりの手応えを維持し、それなりの結果が出ているという意味だろう。

ある程度のペースに届くまで、ちょっとした考え方の工夫をした。
例えば4月半ば、チーム合流直前に「僕は、日本では130試合で210本を打ったから」と、8試合を欠場したことによる心理的な影響を否定した。
長いシーズンを戦う上で、できるだけ自分を追い込まないという姿勢が貫かれている。


 これからの100本についてはどうか。「もう、そんなに(数字を)強く意識する必要はないですね」。予想外の量産ペースによって生まれた余裕が、さらなる加速につながるか。 (共同)
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なんと、あのイチローでさえ、不安があったのだ!!

だから、ひょっとしたら今年の200本達成は厳しいかなあ、という不安を消すために、また、必要以上に自分を追い込まないために、「僕は、日本では130試合で210本を打ったから」と、<考え方の工夫>をしたのだろう。

「ひょっとしたら失敗するかも」と思ってやるのと、「大丈夫、できる」と思ってやるのとでは、後者の成功する確率が高いという話を聞く。

イチローは、バットコントロールだけでなく、心の使い方というテクニックも一流なのだろう。

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