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Author:メイの家
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DATE: CATEGORY:二宮尊徳
先月のクリスマスの前頃であったが、Gさんから「二宮尊徳語録」を出版するので、原稿の校正をして欲しいというメールが来た。

Gさんの自費出版は、既に十冊ぐらいはあるだろうか。

「正月明けぐらいには、印刷に出したい」とのことであり、年末年始にやろうと思い「わかりました。」と返事したところ、直ぐに原稿が送られてきた。

実際、年末から空いている時間に、少しずつ始めたのだが、これが進まない。

原文は明治時代に二宮尊徳の弟子が漢文で書いたものを、戦前の人が読み下し文に改めており、それを元にしてGさんは資料集として出版するようである。





作業が全く進まないのは、字が細かくて読めないこと、なかなか土日も時間がとれないこと(ブログもやらきゃいけないし、ウォーキングもしなきゃいけないし)、そして何よりも原稿の枚数が多いこと、と理由はいくらでもあげられる。

論語をはじめ四書五経といわれる漢籍からの引用も多く、なかなか分かり難いのもある。





それで結局は、締め切りを伸ばしてもらった。

冬休みの宿題の提出期限としては、異例の三月下旬までに。

というもの、原稿をもらって約1ケ月になるが、校正を終えたのはおよそ1/3。

何とかしなきゃいけないが、遅々として進まず。

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まだ1/3しか読んでいないが、面白いというか、分かりやすいのがあったので、紹介したい。

【五五】
家を興さんと欲する者、宜く家具什器を購蔵すべからず。
必用の時に臨み、之隣人に借るべきなり。
若し耕さんと欲して、鍬無きも亦宜く之を借るべし。
隣人も亦、耕すと曰はゞ、則ち励精之を助耕し、速に其の畝を畢へ、然る後、我が圃を耕す。
夜に及ぶも亦可。
是れ則ち家を興すの道なり。
然りと雖も、終始之を借るを以て是と為すも、亦、貧を免る能はざる所以なり。
其の之を借るより、雇と為り銭を得て、以て鍬を買ふに如くは莫し。
是れ一日の雇を以て其の鍬、我が有と為る。
凡そ貧を免れ富を致すの術、此の理を拡充するに在るのみ。





家を興すなら家具など買うな。
鍬も借りろ、ただ借りた家の田畑を耕やすのを手伝いをし、それが夜になってもよい。
もっといいのが、人に雇われて金を稼ぎ、鍬を買うことだ。



まあこういうことなんだろうが、これが語られたのは江戸時代末期のことである。

雇い、雇われるという形態は、今ほどは一般的なことでは無かったのではないかとも思う。

今風に言えば、起業を志す場合は、まずはサラリーマンから始め元手を稼げ、ということになろうか。

極めて当たり前のことだが、尊徳は「私は誰にでもできることのみ言う、私の言うことをやれば誰でも富者になれる」ということも言っている。


当たり前のことがなかなかできない、よくある話ではある。

この原稿の校正もそうなんだが。

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DATE: CATEGORY:二宮尊徳
昨日の10月21日に第17回全国報徳サミット 桜川大会に行って来た。



報徳サミットは、「全国報徳研究市町村協議会」の主催によるもので、全国の二宮尊徳ゆかりの市町村が設立した任意団体のようである。

当日配布された資料をみると、加盟市町村は

北海道:豊頃町
福島県:相馬市、南相馬市、飯館村、浪江町、大熊町 
栃木県:日光市、那須烏山市、茂木町、真岡市 
茨城県:桜川市、筑西市
神奈川県:小田原市、秦野市、開成町
静岡県:御殿場市、掛川市
三重県:大台町

となっている。

いずれも二宮尊徳かそのお弟子さんや子孫が活躍した地である。

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この大会への参加理由は、私が参加している読書会、実はこの会は「報徳読書会」とか「報徳記を読む会」とか他にもいろいろ呼び名があって、名前がきちんと定まっていないのだが、会のリーダーであるGさんの著作と、静岡県森町のMさん著作の写真集を、報徳仕法でいう「推譲」するためである。


主催者でも関係者でもないが、頼み込んで会場の一部をつかわせて貰うことにしたという。



Gさんの著作とMさんの写真集は、ともに報徳思想を実践した明治時代の「砂糖王」と言われた鈴木藤三郎氏に関するもので、いずれも自費出版のものである。


「推譲」というのは、耳慣れない言葉であるが、文字通り「ゆずる」ことで、今の言葉で言えば「寄付」かさらには「投資」という意味合いもあるような気がする。



簡単に言えば、二人の自費出版の本を、欲しい人に無料配布する手伝いに行った、ということである。




折り悪く天候は雨であった。
朝五時半集合で、Sさんの運転する車で現地へ向かったが、激しい雨で前が見えない状態。
ようやくのこと会場へ到着した。


【会場】
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幟も作ってあり、地元桜川市は、気合が入っている。
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会場内は熱気にあふれていた。
参加者は、損得の研究者や学校の元先生という方が多いようである。
「先生」という言葉が飛び交っていた。
事務局の桜川市も担当は、教育委員会の文化生涯学習課であった。
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静岡県森町の氷砂糖
鈴木藤三郎は森町の出身で、氷砂糖を発明した。
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無料配布の本
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これも無料配布の桜川市の隣の筑西市の水
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関係市町村紹介パンフレット。
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相馬市から大震災援助のお礼の言葉などもあった。
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会場内には、二宮尊徳が設置した地元青木堰のことが詳しく紹介されていた。
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二宮尊徳は、勤倹などが有名であるが、農業土木の優れた技術者である。
よくぞこのようなものを建設したものだ。
当時の人はほとんど理解できなかったであろう。

という私は、今もってこれが何故こういうものが堰になるのか、理解できない。

そういえば、バブル期に大手建設会社が、残存していた青木堰の一部を「億」で引き取りたいと言ったとか。
地元の人は、それでも手放さなかったという。
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大正の頃の青木堰
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サミットの閉めは、作家の童門冬二氏の講演。
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300部用意した本は、全てはけた。

率直に言って、半分以上残ると私は思っていた。

素晴らしいことである。鈴木藤三郎氏も天国で感謝しているに違いない。




土砂降りだった雨は、帰りは止んでいた。

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DATE: CATEGORY:二宮尊徳
9月27日に、私が参加している報徳読書会において静岡県にある森町を訪問した。

このきっかけは、日光仕法の現地見学(前回記事参照)の際、鈴木藤三郎のことを知ったためである。(参照コトバンク)

鈴木藤三郎は、資料の散逸を防ぐため、人を雇い報徳記を写し2500巻にまとめ寄贈した。その経費たるや莫大なものである。

それが今市の二宮神社に今でも残っているのであるが、この人は一体どういう人であろうか、という疑問から、藤三郎の故郷の森町を訪ねることとなった。



私としては率直に言って、藤三郎と言う人はなかなかすごい人だなとは思ったものの、それ以上のものではなかったのだが、リーダーであるJさんと熱心なKさんは、以後独自に調査を開始し、ぜひとも故地を訪ねなければならぬ、となったようで、私もそれにつられて参加したというのが、実情である。



Jさんはかつての私の上司であるが、十数年来ライフワークとして二宮尊徳の研究を続けて来たという。その知識量は半端ではない。


一方、Kさんは川崎市内のさる会社の若社長である。私よりも一回りかそれ以上若い。
特に、明治期の実業界での尊徳思想の普及に造詣が深い。

今回も車を運転してくれたのだが、車中、なぜ二宮尊徳なのか、との私の質問に対して、祖父の影響であるとの答えであった。

彼の祖父は、食事の内容や服装に文句をつけるなどもってのほかという人で、また、極めて欲がない人で、無償で仕事を引き受けることもままあったという。
それは何故かと考えているうちに、尊徳思想に行き当たったのだという。



今回は、6名での訪問である。
しかし、森町になんと8名もの方々が出迎えてくれた。
これには何事があったのかと驚いた。
この辺の事情や当日の様子は、森町の方々のブログが詳しい。
踏みしめて
森の元気屋風の便り


元学校の先生で、歩く森町史とも言われるM先生の説明で町内各所を廻る。
M先生はなんと90歳だそうである。
坂道もドンドン登られるし、言葉も明瞭で声も大きい。
一緒に食事もしたのだが、食欲もたいしたものである。

宿場町の風情が残る町並み
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鈴木藤三郎の墓
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旧周智郡役所、現在は森町民俗資料館
内部には縄文時代からの資料がある。
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午後には、掛川市にある大日本報徳社を訪ねた。
報徳思想の総本山である。

この建物は文化財に指定されたという。
その理由が面白い。
報徳社の活動もすっかり下火となってしまった。
せめて建物が文化財の指定を受けて世間の耳目を集めて、少しでも活動を復活させたい、ということである。
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この地方が、日本の報徳運動の中心となっているのは、尊徳の高弟岡田良一郎の指導によるところが大きい。
これが、やがて鈴木藤三郎と言う人物を生み出すことにつながっていった。


人は育った環境から様々な影響を受けるものだが、その中でも生まれ育ったその地域の特性や歴史から受けるものはあまり目立たないが、かなりのものがあるのではないか。

その関係を考えて見るとなかなか面白いものである。




森町の皆さんには大変お世話になりました。
心から感謝いたします。
そして、町がかつての活気を取り戻されることを心からお祈りいたします。

出会いとは不思議なものです。
この地にも私にとっての青い鳥がいました。

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DATE: CATEGORY:二宮尊徳
先日今市に行った際にいただいた資料に、二宮尊徳の最後の言葉が書かれていた。


鳥のまさに死せんとす、
その鳴くや悲し、
人のまさに死せんとす、
そのいうや善し、
慎めよ小子、
速やかなるを欲するなかれ、
速やかなるを欲すれば、
すなわち大事を乱る、
努めや小子、
倦むことなかれ


門人が枕元で代筆したという。

急がず、一歩一歩着実に、ということだろうか。



死の前年の12月25日の日記には、

余が足を開け、
余が手を開け、
余が書簡を見よ、
余が日記を見よ、
戦々兢々深淵に臨むが如く、
薄氷を踏むが如し


と書かれているという。

これはどういうことを意味するのであろうか。
百姓出身であったため、なにかと武士から妨害を受けたことも多かったことについての、武士階級に対する心の中の思いであつたのだろうか。

それとも、百姓をどう救済しようかという日々の苦心であったのだろうか。


二宮尊徳は、身長が180cm程あったという。
江戸時代末期のことであるから、今なら2mを超えている感じだろう。

そんな巨体の人ではあるが、遺言といいこの日記といい、二宮尊徳という人は極めて慎重に物事にあたった人なのだろう。

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DATE: CATEGORY:二宮尊徳
8月2日、今市に、二宮尊徳の日光仕法の関係施設を見に行った。
総勢8名の参加であった。

現地では、いまいち一円会の会長さんと前会長さんにご案内いただいた。
その上、大量の資料のほかに行程表まで作成してあり、誠に感謝、感謝である。
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そもそもここに至ったいきさつは、かつて上司であったJさんを講師として、相馬藩士であり二宮尊徳の弟子であった富田高慶が書いた「報徳記」の読書会に参加し、その読書会がこのたび終了した記念に今市に行くことになったためである。

読書会へ私が参加した動機は、「ボケ防止」であったが、十数年来趣味で勉強してきたJさんの講師ぶりは、まさに玄人はだしであり、この読書会はJさん無しには続かなかった。
仕事の関係で何度か欠席はしたものの、「ボケ防止」の範疇を超えてなかなか勉強になった。

今回の見学も段取りの全てはJさんにやっていただいた。
感謝、感謝である。


いただいた資料によると、
1844年 弘化元年 幕府から日光神領復興見込み調査を命じられる。
1846年 弘化3年 富国方法書84巻を幕府に提出。
1852年 嘉永5年 日光神領の仕法開始を願い出る。
1853年 嘉永6年 日光神領復興の命を受ける。
1856年 安政3年 二宮尊徳死去。以後息子の尊行が仕法を行う。
1868年 明治元年 戊辰の戦火により尊行相馬へ移住。

と、日光仕法は、親子二代で足かけ16年ほどである。


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二宮神社にある尊徳のお墓。

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報徳仕法役所跡にある報徳新興会館に掲げてある「徳を以って徳に報いる」の額。

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「沢蔵司稲荷仕法」とは、信仰していた沢蔵司稲荷を管理するために尊行が考案したもので、51年の長期計画で12両を地元住民に貸付し、利子1割の複利計算で終年には158両となる。これを永久に据え置き利子の15両3分を活用して維持管理費とするものである。
大正年間まで続いたそうである。

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右から左へ流れる川を横切って、向こう側からこちら側へ流れる用水。
川が渇水しても増水しても、農業用水は流れるという。こんなのは見たことが無い。
二宮尊徳とは、土木技術者としてもすごい人である。

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以前は山林であったところが、用水開発により新田が開かれ、今では田園地帯となった。

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開墾地も今では、市街地となっており、面影は無い。

いただいた資料によると、今市における仕法の実績としては、
1 廻村と指導・・・18人の門人で5,866回行った。「いもこじ」といわれる民主的話し合いの場を通じて指導に当たった。

2 荒地起返し・・・326町歩余で、人足2,800人、人足入用金2,900両を投ずる。

3 用水掘りの開削・・・17,900余人で1,180両余を投ずる。用水掘り103本のうち33本が二宮堀。

4 出精人の表彰・・・311人を表彰し、金74両、鍬113丁、鎌362丁を与える。表彰者は全村民一人一票の投票で決定。

5 困窮者の救済・・・221人に219両2分を与える。

6 無利息金の活用・・・生活苦、病気等により3,336人に5,475両を無利息で貸し付ける。

7 潰れの再興・・・仕法農家や灰小屋を作り、農地も与え再興を図った。

8 植林の奨励・・・72,105本を植える。

9 大開発・・・五大地開発(今市瀬川入会地、今市大谷向、芹沼倉ケ崎入会地、大渡、板橋)

10 冥加雑穀の上納


総計25,000人以上の人足を動員し1万両近くを援助したという。
相馬藩からも相当数の冥加人足の応援があり、「相馬には足を向けて寝られない」との話があった。


日帰りの慌しい見学であったが、案内いいただいたお二人には感謝感謝である。
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