引越しネタは、そろそろこれで最後にしたい。
私の人生の中で、もうこれ以上引越しすることはないかも知れないし、記憶はドンドン薄れていくので、これまでの6度引越しをまとめおくことにした。
最初の引越しは、大学生活のために実家を出たときである。
会津若松駅のホームで母に泣かれたのが、今でも忘れられない。
母は、「もう帰ってこないだろうな」とホームで泣きながら言ったのだか、ホントにそうなってしまった。
一方その時私は、結構気楽な気分であり、親の心子知らず、という典型的な状況であった。
①三畳一間の下宿実家を出て初めて生活をしたのは、三畳一間の下宿であった。
ふとんを敷くと部屋が一杯になってしまう。
当然風呂はないし、トイレは何と汲み取り式であった。
大家さんだか管理人さんだかわからなかったが、祖母と同じぐらいの年齢の女性が住んでおり、私が高熱を出し寝込んだときなど大変親切にしてくれた。
最初は一人暮らしの喜びで、この下宿に何の苦も無かった。
当時実家もボロであり、多少のことには動じなかったが、この下宿は廊下が湿気で抜けそうだったりと、建物があまりにオンボロなことと、やっぱり狭さに耐えかねたことから、やむなく一年半ほどで引っ越した。
この下宿は、グーグルの航空写真で見ると現在では更地になっている。
②四畳半の下宿ここへの引越しは、リヤカーを借りて行った。距離にして2~3キロメートルぐらいか。
トイレは水洗で、風呂はなかったが、建物は比較的新しかった。
就職先には、寮があったのだが、地方から出てきたものを優先するとし、私の場合は学生時代から横浜に居るので、土地勘があるだろうから自分で住むところを探せと、入寮を拒まれてしまった。
就職してからも、銭湯に行ったのは2~3日に一回であったと思う。
今では朝晩入ってるの当たり前であるが、実は今でも3日ぐらい入らなくても平気である。
しかし、夏は暑かった。
窓が一つしかなく風が抜けない。
畳は焼けて熱くなっているし、到底ふとんでは寝られず、タオルケットのみ敷いて裸でねていた。
熱くて寝られず、悶々とし、夏場はいつもげっそりとしてしまった。
電話もなかった。
特に職場からは、電話を引けと言われていたが、下宿であり無理であった。
学生の後輩もいて楽しかったし、引越しが面倒なこともあり学生の下宿に居つづけたが、大家から「就職したのだからそろそろ出てくれ」と言われ、仕方なく引越しをした。
結局、学生時代の大半と、就職してからの一年半ほど過ごした。
③木造2kアパート四畳半と六畳に、台所と風呂が付いており、風呂は毎日入るようになった。
ここもボロだった。
強風が吹くとユラユラと揺れ、怖かった。
いつか潰れるだろうと思っていたが、グーグルの航空写真で見るとまだ残っている。
このアパートは、畑に隣接して建っており、風が吹くとすぐに砂埃が入ってくる。
夏場締め切って仕事に行くと、夜帰宅した際、熱くてとても居られない。
部屋の中に盗られる物もないので、仕方なく窓を少し開けていくのだが、すると床がジャリジャリになってしまい閉口したものである。
またある時、寝ようと布団に入ったら、強烈な痛みが首筋に走った。
よく見ると大きなムカデが布団に居た。
その後布団は点検してから寝るようになったのだが、数年後もう一度やられた。
畳の隙間にいた。
転勤で、2時間もかかるところへ何年も通勤もしたが、引越しが面倒なのでやっぱり居続けた。
隣室は、中華料理店を営むご夫婦が住んでおり、よく赤ちゃんが泣く声が聞こえていたのだが、いつままにか中学生になっていた。
あまりにもボロなので、このアパートは、友人からは「ゲゲゲ荘」と呼ばれていたが、ここには結局、結婚するまで十年以上住み続けた。
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